海外記事翻訳:ダンスとともにある生活

Apr. 13, 2003
posted by moriy
原文掲載サイト:Celtic Cafe
原文ページURL:http://www.celticcafe.com/shows/riverdance/Joanne.htm
一次翻訳:moriy
翻訳チェック&コメント協力大感謝:トントンさん、熊谷さん、けいとさん
JOANNE DOYLE: Life With Dance
by Alex Szabo

Riverdanceがユーロビジョン・ソング・コンテストのインターバル・アクト(訳注:幕間に行われるアトラクション的な演目)として、人々を驚嘆の渦に巻き込んでから7年以上経つが、アイルランドの音楽やダンスの魅力は衰えることなく、世界中の人々を魅了し続けている。この7年の間に、技能を買われショウの一員となる栄光をつかんだダンサーは大勢いるが、 Liffey Companyの女性プリンシパル、Joanne Doyleのように、当初から今日までそこにいつづけているのはわずか数名を数えるのみである。

ユーロビジョンで踊ることはできなかったが、その8ヶ月後にショウに参加して以来、彼女は世界中で1500回以上もの公演をこなしてきた。2002年の英国ツアーは、6年以上前に彼女が初めてリードを踊った場所への帰還となる。Joanne Doyleは、2001年12月7日、オーストリアのインスブルック公演の際に、Riverdanceでの生活について語ってくれた。


ダブリンでユーロビジョン・ソング・コンテストが行われた1994年、あなたはスロベニアのLjubljanaにいたわけですが、どのようにしてそこへ留学することになったのですか?

ヨーロッパの社会政策分析の修士を取っていたんだけど、この学科では学期ごとに、別の大学に行かなければならないのね。最初の学期はダブリンで取ったわ。でも3学期目に行きたい場所を選ばなくちゃいけなくなったとき、みんなはスペインとかポルトガルとか、ちゃんとあらかじめ考えていたところがあったんだけど、わたしは別にどこでもいいですって言ったの。ホントにどこでもいいと思ってたし。だからスロベニアに決まったとき、「オッケー、いいじゃない、スロベニア」って思った。そしてまずアムステルダムまで飛行機で行って、そこからスロベニアまでは列車で。スロベニアでは学生寮に住んでたんだけど、隣の建物はクロアチア人の男の人ばかりのアパートで、もう片方にはボスニアの難民の人たちのアパートがあったわ。

その時期も踊りは続けていましたか?

ええ、ダンスシューズを持っていってたの。自分の小さな部屋で、基礎練習をしたり、体がなまらないようにしてたわ。

1994年のユーロビジョンの晩のことは憶えていますか?

ユーロビジョンが放映されたときわたしはBledというところにいたんだけど、その番組にインターバルアクトがあることは知ってたわ。わたしがアイルランドを離れたのが4月の17日で、ユーロビジョンの放映は30日だったから、それに出られないのはわかっていてオーディションも受けなかったんだけど、自分のダンスクラスでそれに向けた練習をしてるのを見て、「うわあ、これすごい!」って思ってた。だから、湖のほとりの小さなバーで、そこの店長さんに「お願いだから、お店開けといて、ね、絶対すごいから」って頼んだの。彼女は「何言ってるの?」っていう顔をしていたけど、お店を開けておいてくれたの。そしてあのインターバルアクトを見たとき、みんなの態度が変わって、「ワーォ!」って。店長さんが「あなたもあれをするの?」って訊くから「ええ」って答えたら、踊ってくれるように頼まれたの。だからそのバーで彼女のために踊ってあげたのよ。その夜はただ「帰りたい!」ということばかり考えてた。母がわたしにRiverdanceについての新聞記事の切り抜きを送ってくれて、その時から勉強には集中できなくなってしまったの・・・とにかくその学期を早く終えて帰りたかった。

いつ、どのようにしてRiverdanceに参加したんですか?

アイルランドに戻ってから、わたしが通っていたダンススクール(O'Shea School of Irish Dance)のツアーで、すぐにフランスへ行ったの。わたしたちは毎年フランスのケルティック・フェスティバルのひとつに参加していて、そこに行くのは恒例のことになってた。そしてまた帰ってくる頃にはダンサーはみんな友達になっていて、お互いに電話で連絡を取っては、夜ダブリンで会ったりしていたの。Michael Flatleyもそのころはダブリンに住んでいたから、よく顔を見せていたわね。わたしはBreandan de Gallaiと一緒に作ったDualta Dance Companyで踊っていて、彼もゲストとして参加したことがあるから、わたしのダンスを見たことはあったのね。だから、さらに多くのダンサーが必要になったとき、わたしの名前がリストに入っていて、契約書が送られてきたというわけ。

では、オーディションは受けなくてよかった?

そう、ありがたいことにね! オーディションって大変なのよ。カメラの前でしゃべらなきゃいけないし、モデルみたいに振る舞わなきゃいけないし、もう信じられない。わたしなんか、『Fame』(訳注:ミュージカル『Fame』)みたいにあんなに長い列の中に立って、「きみ、やって」なんて言われたって、とてもできるとは思えないわ。だから彼らがダンサーを必要としたちょうどいいタイミングで、いい場所にいたのはとてもラッキーだったと思うわ。そしてわたしは大学を卒業して、父も1年たったら帰ってくる約束でRiverdanceへの参加を許可してくれた。7年たったいまでは、お父さんは『がんばれ』って言ってくれるわ!

『Riverdance the Show』初演の日はいかがでした?

とてもナーバスになったわ。カンパニー全体がナーバスになってた。2人ずつステージに出ていくところ(『Reel Around the Sun』で一番最初にLow Whistleが流れる中、ダンサー達が出てくる場面)で、わたしは Sabrina Cartyと一緒だったわ。彼女はその時15歳で、いまでもカンパニーにいるわ。オープニングの曲で、わたしたちは客席に対して背中を向けて各自の場所についたんだけど、みんな震えて、「ああ、神さま!」って思ってた。だけど、本当にもうエネルギーが湧き出るって感じで、すべてがうまくいったわ。お客さんも盛り上がって、もう、おかしくなってたわね! 終演後はみんなホッとして、「もう一回やれって言われても、こんなにうまくできるかしら?!」って言ってた。

その後間もなくあなたはプリンシパルのダンサーとなるわけですが、実際どのようにしてプリンシパルになるのですか?

開演から1年がたって、ロンドン公演の時にアンダースタディになったわ。実際には95年の11月にJohn McColgan(訳注:Riverdanceのディレクター)からアンダースタディとしての練習をしておくように言われていたんだけど、わたしはとてもナーバスだったから誰にもそのことは言えなかった。毎日毎日3時間くらい練習して、1996年の1月29日に初めて、そして2月3日に2回目のリードを踊ったわ。でも10日にひざの軟骨を悪くしてしまったの。すぐによくなって、3月のニューヨーク公演の頃には踊れるだろうと思ってたんだけど、なかなか回復しなかったわ。だからニューヨークでは踊れなかったのよ。とてもがっかりだった。

そしてまた戻って、その次はベルファスト公演。ベルファストの最後の公演が終わって、John McColganと話していたとき、ちょっと転びそうになったの。そしたら彼が「おいおい、気をつけて。プリンシパルにケガされたくはないからな」って。「え、何て?」と訊いたら、彼はわたしを見て「いま聞いただろう・・・」。だから彼はステージでわたしが踊っているのだけを見て、リードダンサーの役をくれたの。もし、オーディション、オーディションの繰り返しだったら、ねえ。・・・自分はオードリー・ヘップバーンみたいだなって思うの。一度はうまくやれると思うけど、もう一度やるように言われても、わたしは無理って言うわね。
(訳注:オードリー・ヘップバーンって、監督や作家に一目で気に入られて主役に抜擢! みたいなことが多かったんだそうです)

Liffey Companyはベルファストを再び訪れ、それを皮切りに6ヶ月間の英国ツアーが始まりますよね。これはあなたにとって特別な機会だと思うのですが?

そうなの! それにボーイフレンド(Noel Eccles)のご両親がベルファストに住んでいて、わたしの両親も見に来てくれる予定なの。またベルファストで公演ができるなんて素敵だわ。アイルランドのお客さんはいつもすこし違うの。彼らはRiverdanceを彼らのもの、彼らのショウだと思っているから。

つい最近、英国カムバックツアーのプロモーションもされてましたよね?

Joanne and Breandan先週バーミンガム、ノッティンガムとカーディフでプロモーションに行ってきたわ。ウィーンで3日の休暇があったから、日曜日に発ってバーミンガムについたのが夜の8時半。月曜の朝11時から午後4時までいくつかインタビューを受けて、ニューカッスル行きの行きの飛行機に乗ったの。次の日も似たような感じで、飛行機でバーミンガムに戻って、クルマでノッティンガムへ。水曜日はインタビューのあとカーディフまで列車。カーディフでインタビューを受けた後はヒースローに行って、飛行機でウィーンまで戻って。金曜日にはステージに上がってたわ。あとブランダンとわたしはツアーのために宣伝用の写真を撮ったの。ベルファストで湖のほとりの岩の上に登って、素敵な秋の夕暮れの中でね。とってもいい写真が撮れたんだけど、ダンスの写真じゃないの。トップデザイナーの服をまとって、ファッション誌の写真みたいな感じなのよ。
(訳注:moriyがイギリスの列車(ScotRail)の車内誌で見つけたその写真。)

ツアーを続けるカンパニー(のメンバー)にとって、移動というものはいつも意識せざるを得ない事柄ですよね。実のところ、どれくらい大変なものなのですか?

時間が経つにつれて、だんだんと移動がイヤになってくると思うわ。ツアーに参加したばかりの頃は、知らない街に行って、ホテルに泊まって、親元を離れて、といったこと全てがすごくワクワクすることなのね。でも5、6年もたつと、「ああ、もう! また別のホテルに行かなきゃいけないとなったら誰かを殺しちゃうから!」なんて思うようになるわ。自分の洗濯機がないとか、ケトルやトースターみたいなものもないとか、テレビはいつもドイツ語放送(わたしたちのカンパニーはよくドイツに行くからね)だとか、結構不自由な生活だわね。今はみんなドイツ語を話せるようになっていて、そのことはとても良いことだと思うんだけど、でも、ドイツ語のテレビをそんなに見たいとは思わないわね。

Riverdanceはひとつの街に1週間から2週間滞在しますよね。こういうスケジュールの組み方は、他の、ほとんど毎日移動していくようなショウと比べて楽だと思いますか?

ええ、もちろん。絶対楽だと思うわ。毎日移動っていうのは精神的に疲れるもの。そのうち自分がどこにいて、きょうが何曜日だったかもわからなくなってくるわ。わたしはこういうスタイルのツアーが好き。その街を見てまわれるから。来週チューリッヒに行くんだけど、3日間の休暇があるから美術館を訪ねるつもり。先週ウィーンの公演を終えたあとはオペラを見に行けたわ。こういう(一カ所に1〜2週間位留まる)スタイルのツアーのいいところは、いろんなものを見たり、観光ツアーで一日かけて街を見て回ったり、ショッピングに行ったりして、その街に対する全体的な「感じ」ってものをつかめるし、それを記憶にとどめておけるということね。

あるひとつの街で続けて公演をするとき、開演日とそのあとの日では何か違いはありますか? よりナーバスになるとか、集中できるようになるとか?

初日はいつもすこし神経質になるわね。ステージはどの会場でもまったく同じサイズというわけではないから。ステージにはいろんなサイズがあって、35メートルから33メートル、場合によっては31メートルということもあるわ。たとえそれがたった2メートルだとしても、それに合わせなきゃいけないんだけどね。たとえば『Heartland』で、ステージが35メートルだと、ブランダンとわたしは早めに出て行かなきゃいけないんだけど、31メートルだったらすこし後ろからスタートしないとぶつかってしまうのよ。

あと、ここ(インスブルック)はお客さんが正面に座るようになっているけど、ホールの両脇で客席が高くなっているところも多いし、両脇に広がっているところもあるわよね。お客さんがどこにいるかを把握するのは大切なことで、もし踊るときに真正面しか見ないとしたら、両脇にいるお客さんはつまらない思いをするでしょう。だから、正面だけを向いて踊るのは、こんな感じでみんなが真正面にいるときだけなのよ。

もうひとつ、リハーサルでは、とにかく集中して「どこに立つか」「どこで終わるか」を確かめていかなければならないわね。舞台の照明の多くはプログラムされていて、自動的にスイッチが入るようになっているから、ちゃんと決められたタイミングでその場所にいないと、みっともないことになってしまうわ。

主役として踊るという以外に、プリンシパルダンサーとしての責任というのはあるのですか?

わたしたち(Breandanとわたし)は、アンダースタディがわたしたちと同じようなスタイルで踊るということについては責任があるから、多少の技術的なアドバイスはするわね。でもまったく同じである必要はないの。完全に動きをコピーすることはできないし、もし出来てもその動きが他のダンサーには合わないこともあるし。だからわたしたちは、アンダースタディのダンスのスタイルをよく理解して、いい面を見つけて、それを引き出すようにする必要があるの。でも教えるのは好きだから、こういうことも好きよ。わたしたちはダンスキャプテンの Julie (Regan)と連携しながら動いていて、アンダースタディーのダンスを見るためにマチネを見たりすることもあるの。Troupeのメンバーについても気づいた点を Julieに伝えるようにしているわ。それが、彼女がメンバー達の問題点を修正していく助けにもなるし。つまりみんなでお互いをサポートしているの。

半年前、マドリッドの公演会場が火事になり、Liffey companyのほとんどすべての機材や設備が失われるという惨事がありました。カンパニーのメンバーにとってとてもショックな出来事だったに違いないと思うのですが。

そう、あれは大変だったわ。わたし自身は何ともなかったんだけれど、ボーイフレンドがパーカッションの楽器を全部なくしてとても悲しんでいたわ。ミュージシャンの人たちは、本番で使わないけど練習とかでたまに使うことがある楽器とかをフライトケースに入れておくのね。彼は20年前のアルバムの録音でつかっていた楽器をダメにしてしまったから、とても気が動転してたわ。

マレーシアの新聞のインタビューで、あなたは「今の自分(のパフォーマンス)に満足するわけにはいかない」と言っていますが、これはあなたの仕事がいかに大変なものかを物語っていますね?

そう、そうね・・・そう考えることでやる気を出して、集中するようにするわけ。時々、ダンサーって自分にちょっと厳しすぎると思うこともあるけど、それでも自分にプレッシャーをかけることは必要ね。ダンスに関してはみんな完全主義者なのよ。競技会で、お互いに競い合ってきたから、みんなひとより上手になりたいのよ。昨日のパフォーマンスときょうのパフォーマンスが同じでいいなんて思えないわ。昨日うまくいかなかったことを思い出して、うまくいくように努力するのよ。